Ryukyu Ainu Jomon琉球 アイヌ 縄文

日本のトライバルタトゥーとしては、ごく近年まで習俗としてそれが行われていた琉球(沖縄)とアイヌ(北海道)の記録を挙げることができます。琉球では女性の手の甲と指に施されていたものが主流ですが、その中の宮古島では前腕部の記録も残っています。特に宮古島のパターンはサモア、フィリピンなどの南洋諸島の女性のものとの強い類似性をもっています。アイヌの場合はこれもやはり女性なのですが、前腕、手の甲、眉、口の周辺に彫っていました。アイヌの施術法は世界のトライバルタトゥーの中でも珍しい部類に入る、カミソリなどの刃で皮膚を切り裂き、その傷に煤を擦り込むというものでしたが、これには北海道が切れ味抜群の良質の黒曜石の産地であったことが関わっているような気がします。また口のまわりに施すパターンは台湾のアタヤル族女性のそれとよく似ています。

琉球、アイヌともにタトゥーの意味としては、呪術的側面としては死後の旅立ちをサポートするもの、社会的側面としては結婚可能な女性であることの信号、同族外の男にさらわれないためのガードなどの理由づけがなされていましたが、対象者が女性ということもあり、やはり何と言ってもファッションとしての力がその存在意義だったようです。どちらの地域でもかつては男女とも施術していたようなので、近年の資料に残された状況は、明治政府による禁止令という出来事以前に、すでにその文化が消え行こうとしている最後の灯火だったのかもしれません。

南北のアメリカや南太平洋諸島では西洋との接触によってトライバルタトゥーが消えていったのですが、東アジアにおいてその分布域を考えた場合にはやはり中華文明との地理的、政治的な距離との関係が見て取れます。部族的カルチャーは文明が波及してくるとそれに飲み込まれてしまうことが多いわけです。こういった事情を考えると、縄文時代後期以降、複数回に及ぶ大陸からの人の流入によって形質、文化ともに大きな変化を遂げていった本州、四国、九州といった地域と比較して、それらの外側両端に位置する琉球とアイヌは縄文人の形質、文化がより色濃く引き継がれいるためにそのトライバルタトゥーも近年まで残り得たのではないかと推測しています。したがって同時に縄文期の土偶や仮面に見られる身体装飾模様にはその時代、地域のトライバルタトゥーを表しているものがあるとも考えています。

かつて北方モンゴロイドの一群は氷河期で陸続きだったシベリア、アラスカ間を渡り北米、中米、南米と移住して行きました。何万年も前のことです。そして現在資料で見るかぎりでもそれらの地域にはほとんど万遍なくトライバルタトゥーの文化が散らばっていました。それこそ秘境の原始人みたいな部族から高度の社会システムを築き上げたマヤの人々にいたるまで偏りなくです。そのことから、タトゥーの技術は氷河期が終わりシベリアとアラスカが海によって隔てられて以降に域外から流入したり、あるいは偶然新大陸のどこかで発明されてそれが周辺に伝播して行ったと考えるよりも、移住のはじめから持っていたと考える方が自然だと思えます。つまり氷河期の昔にはすでにあったと。

他方で北方モンゴロイドはアジアの南にも進出して行き、大陸から台湾に移った一群の中から長距離の航海術をもってフィリピン、インドネシア、メラネシアからミクロネシアやポリネシアへと広がっていく者達が現れたことが遺伝学的、言語学的に考えられています。それらの移住もやはりタトゥーの技術を伴うものでした。トライバルタトゥーの習俗を持った北方モンゴロイドによる環太平洋の連鎖。日本もかつてまぎれもなくその一部であったのだと思います。

2014年夏、当スタジオはこれまでも散発的には手がけていたけれどもジャンルと呼べるほどのボリュームには到底達していなかった古代日本のトライバルタトゥーを対象に『縄文プロジェクト』という企画をスタートさせました。それは国内マーケットにそういう需要が出てきはじめたなどの動きを受けたわけではなく、また僕の個人的な嗜好が第一の理由ということでもありません。『外因』とでも言うのでしょうか、海外の研究者、ジャーナリスト、アーティスト達からは長年にわたり日本人のトライバルアーティストである僕がこれをやることを期待され続けてきたということがあり、それへの返答という色彩がとても強い企画のスタートでした。

僕は日本に本場のポリネシアンタトゥーを紹介するのが業界内での最近の自分の役割と考えて活動をしているのですが、この、世界的には非常にメジャーなジャンルにおいて『本場で通用する』というのは片手間で出来る事ではないはずだし、そもそもどこからどこまでのレベルを以て本場とするのかもよく分からないからとにかく必死に励むしかない。そういう感じでこの数年間、縄文に取り組むのを先延ばしにしてきたのです。今にして思えばそれはこの領域の捉え所の無い巨大さに対する警戒心だったのかもしれません。

なぜ今まで日本には縄文トライバルタトゥーというジャンルがまとまった形で存在していないのか?日本の縄文土器や土偶は最高級の古代芸術として広く世界に知られています。そして世界中の石器時代や土器時代の狩猟採集民は刺青あるいはスカリフィケーションを身体装飾として行っているのがまず常識です。この二つの事柄から、海外の研究者やアーティストがそういう疑問を抱くのは、ごく素朴で自然な反応といえましょう。ところが日本国内で縄文時代のタトゥーに少しでも興味があって調べ始める者はすぐに壁にぶつかることになります。

その対象となるのが数千年から数万年という規模の過去の時代だということがまず一つ。世界各地のリバイバルタトゥーを例に考えてみると、その伝統がぎりぎりでも繋がっているボルネオ、フィリピン、ナガ、ベルベルなどは正確な復元がすぐに出来る事は自明です。途切れて間もない北海道や沖縄にはまだその可能性が残されています。ですがほんの百何十年程度の断絶があるポリネシア(サモアは除く)は、大航海時代の博物学者達によるかなりいい記録資料があるにもかかわらず、本当のレベルでのリバイバルはやり遂げられず現代タトゥーとしての道を探るしかないわけです。それを考えると歴史の記録どころか文字すらも発明されていない数千年前というのはもうはるか彼方の論外なんですね。そしてさらに日本の縄文研究は考古学が中心だということ。掘り起こされる土器などの現物の編年作業がその中心であって、そういう尺度で言うとタトゥーに関しては保存状態のいいミイラがヨーロッパのアイスマンやシベリアのウコクの女王のように発見される以外には研究の余地がないということです。

民俗学、文化人類学であれば多角的な比較による類推として縄文のタトゥーは当然存在したであろうという結論になるはずですが、刺青をめぐる世界的にもきわめて特殊なタブーを形成している現代日本社会にあってはそれがテーブルの上に乗せられること自体がほとんどないわけです。そこにはまるで自分の祖先が刺青をいれていたことを認めることですらも何か都合が悪いかのような空気があるような気もします。1969年、学生たちによる安保闘争などの時代背景の中で発表された高山純『縄文人の入れ墨』は当時としてはタブーを打ち破るような自由な論調があり、かなり売れた本だったようです。このへんの件はベルリンの壁が崩壊するという事件と身体改造に関する画期的ベストセラー『モダン・プリミティヴズ』の登場とがシンクロしていたこととよく似ていると思うのですが、壁の崩壊以降に大ブームを迎えた世界のタトゥー、ボディーピアッシングとは裏腹に、日本の学生運動は結果的には失敗に終わり、個人の自由を謳歌する空気も不完全燃焼になったので高山氏に続くムーヴメントがなかったのではないかという見方も出来ると思います。つまり、年月と風潮という二つの壁が学術的な支えを遮っているため、リバイバルタトゥーとしての縄文は成立しづらいんですね。あったということが証明されないから。かといって、あれほどの芸術活動を行っていた狩猟採集民である縄文人が、あらゆる芸術のなかでも最も基底に位置するタトゥーという行為を楽しんでいなかったなどということは、世界各地に未だに遍在する狩猟採集民たちを訪ね歩いて彼らのタトゥーを実際に目の当たりにしてきた僕には到底是認することは無理なんです。

壁画や彫刻すらまともにないような秘境の石器時代的狩猟採集民の村にだってタトゥーは存在するんです。東京のスタジオには弟子を志願する方々がたまに来ますが実にその半数以上は絵心なんてまったくない。つまりそれぐらい基底にあり、シンプルであり、魅力的な芸術行為なんです、タトゥーというものは。北海道や沖縄、そしてそのさらに外側のクリール列島や台湾、海南、フィリピンなどに近年までタトゥーの習俗が残っていたということが、狩猟採集時代の本州、四国、九州、さらに朝鮮半島や大陸をも含めた東アジア全域にそれが存在していたことの動かしがたい証拠であると考えている僕にとっては「刺青の可能性はあるものの、日本の寒い気候帯から考えておそらくは服の模様だったであろう」とされがちな土偶の文様は「服の可能性もあるが、日本の暑い気候帯から考えてまあほぼ刺青と考えるのが自然」なのです。だから、無かったということなんてもっと証明出来ないんです。まあ、この手の事柄をタトゥーアーティストが己の立場からムキになって主張してもラチがあきませんのでこれぐらいにしておきましょう。そこは今後の研究者達のアプローチに期待したいですね。まずは現代的なブラックワークとして、縄文にインスパイアされたクオリティーの高いものを世に送り出して行く事が我々アーティストの領分ですね。デザインの分析としては、火焔式や水煙式などに代表される縄文土器の文様は、同時代の中国の殷や周の青銅器などを見ても分かるのですが当時の東アジア全域を覆っていたパターンでもあります。空間をみっちりと埋めるようなぐるぐる巻き構造ですね。東アジアに限らず、これはシベリアから東南アジアまでそこかしこに今でもまだ残っています。クリールや北海道のアイヌの工芸やトライバルタトゥーが、はるかに隔たった海南島の黎族やボルネオのトライバルタトゥーと類似していたりするのは、両者がかつては共通の基盤の上に立っていた事の名残です。ちなみに三世紀の魏志倭人伝の記述によれば日本人は身分の高低に関わらず皆タトゥーをいれていたとのことであり、さらにその様子は海南島のそれと同じであるともされているんですね。素朴なライン表現ではあるけれども典型的な縄文土器文様である海南島黎族のタトゥーと類似のものが縄文時代よりもさらにくだった弥生時代の日本でも広く見られたと言っているんです。

全盛期の縄文時代に土器や土偶と同じ模様がトライバルタトゥーとして人々の肌を飾っていたと考えるのはいたって自然でしょう。この渦巻きとまともに向き合っていたこの一年で僕はある感覚を抱くようになりました。これは蛇である。神のレベルにまで昇華された世界蛇(龍)であり、抽象化された生命力のシンボルとしての蛇である、という感覚。北方においてはその形状や動きがデザインとなり、南方では煌びやかな毒蛇が多いためにその皮膚の柄がモチーフとなっているんじゃなかろうか、という見方です。このようなアングルでカムチャッカ半島からインドネシアまでを俯瞰すると新しい地図が見えてきます。渦巻きの模様ばかりに目が行きがちな縄文パターンですが、直線的な線彫刻の連続パターン、いわゆる線刻も見落としてはならない要素だと思いますね。これらは縄文に特徴的なものではなく世界中のあらゆる地域であらゆる物に対して普遍的に使われているデザインなのですが、それゆえにタトゥーの柄としてもとても普遍的なのです。実際、原始的な道具で彫っていくプロセスを考えるとただの点表現の次に可能となるのは線表現なわけでして、そこから面の表現となるまでの間にはそれなりの道具の進化が無ければ効率が悪く隔たりがあるんです。だからこれらの線刻のデザインは実際の当時のタトゥーの主立った構成要素でもあったと感じているんです。

縄文芸術を見いだした岡本太郎はそのアシンメトリーな迫力を絶賛していましたが、僕は逆に縄文土器は基本的にはシンメトリーであるというところに特色があると思っているんです。そこがとてもトライバルタトゥーっぽい。この感覚がどれほど一般のタトゥーファンと共有できるのかは分かりませんが、縄文土器を眺めているとどこかの部族の人を眺めているような気がしてくるんです。おそらくあの土器は土偶と容器の間に位置する物体であり、人体の代替表現ですらあるんじゃないかと。いや、これは妄想ですかね。ですが、とにかく、あの構図の取り方はトライバルタトゥーっぽいよなぁと感じているところです。

引用
著書:「traibal tattoo designs from the americas 」出版:mundurucu publishers
著書:「traibal tattoo design」出版:the pepin press
著書: 吉岡郁夫「いれずみ(文身)の人類学」出版:雄山閣

参考文献
著書:「THE WORLD OF TATTOO」Maaten Hesselt van Dinter著 KIT PUBLISHER
著書:「世界民族モノ図鑑」明石書店
著書:「EXPEDITION NAGA」 著者:peter van ham&jamie saul 出版:antique collectors, club
著書:「MAU MOKO The World of Maori Tattoo」Ngahuia Te Awekotuku with Linda Waimarie Nicora
著書:「縄文人の入墨」高山純, 講談社
著書:「TATTOO an anthropology」MAKIKO KUWAHARA, BERG
著書:「GRAFISMO INDIGENA」LUX VIDAL, Studio Nobel

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